昭和四十九年二月二十七日
X御神訓 一、清き所も 穢いき所も 隔てなく 天地の神は 御守りあるぞ 我が心は 不浄を犯すな。
神様のお目から御覧になれば、清いも穢いもないということです、ですから私共の心も段々高度になって参ります、我が心が神に向うて行くことになって参りますと、清きところも穢きところもなくなって来る、一切が拝む対照でしかなくなって来る、私はそう思うんです、清きも穢きもないと、ないということ、例えば清き所穢き所とこう所と云ってありませんけれども、これはだから清い物というてもよいです、清い物も穢いものもといって良いです。
人間でも大変美しい人もありや、醜い人もあります、心のことになって参りますと愈、千差万別であります、心が清らかな人もありや、本当にまあ何という心の穢い人だろうかという人もあります、けれどもこちらの心が、段々高度化して参ります、所謂神様に近付くいて行く、心掛けというものが出来て参りますと、今まで穢いと思うておった、ところも綺麗に見えて来る様になる、そういう訳ですね。
昨日ここの石浦の久保山さんがお届けをなさって居られます、もうこの頃はおかげを頂きまして娘と二人でお参りが出来る様になりまして、本当に有り難い、娘は朝の用意がありますから、御理解を頂いたらすぐ帰りますけれども、私がゆっくり残って、後のお届けをして帰られる、もう本当に家の中で、信心話が出来る、共励が出来る、本当に有り難い、そして本当に有り難い事には、娘が段々有り難くなって行くということです、第一朝参りさせて頂く様になって、怠ってお参りしなかった事がある、今他所のものをお裁縫をなさって居られる。
それにお参りした時だけは確かに仕事が捗るとこう云はれる、所謂思い捗が行くのです、自分の思いがすきっと捗行ってますから、仕事の上でもちやっと思い捗か行くことは間違いないです、昔から私の母がよく言ってましたが、盆とか正月なんかは、お先祖様の所謂お墓掃除に参ります、だから出来るだけ早く行かなきゃ、早う行く程、思い捗が行く、ということを母が言っていたのを思い出した訳ですけれども、確かに思い捗が行く、それは神様が喜ぶんで頂く様な心になるから、捗が行くのである。
お裁縫しながらでも、一針一針の中に、金光様が称えられる様になるから、確かに捗が行くのです、素晴らしい体験。
昨日は私がこうして毎日お参りをさせて頂く様になったら、第一弟達が非常に私を大事にすることに気付いたとこう申しております、何人も弟さん達が居られます、なら今までお姉さんをお粗末にしとったとは思はれませんけれども、まあ大事にはして居なかったかも知れません、それがこの頃弟達が本当に大事にして呉れる様になった、今御普請があっとりますが、大工さんやら左官さんやら左官さんが、変った訳ではないだろうけれどもあの人はあんなによい人、左官さんは中々よか人という風にお母さん見えて来たと娘が申しますとそりゃもう極楽行きの稽古が出来るよるたいと云うて、お話ししたことでした。
皆から大事にされるという自覚、又は皆がよい人に見えて来るということ、それが仏様に見えて来る様になり神様に見えて来る様になったらです、もう愈極楽です、そうでしょう、自分の周囲が皆仏様やら神様やらばっかりですから、しかも弟達が、大事にして呉れる様になった、結局アサ子さんと云いますが、アサ子さんの心の中にです、もう清きもなからねば、穢きもないという、いはば穢く見えておったものが、清く見えて来たり、心一つで。
私は今朝方こんなお夢を頂いた、或る人が何かドブざらいをしょったら沢山のラムネの玉が出て来た、ラムネの玉ですね、だからそれを何回も何回も濯いで、清らかに、清めておるから、皆さんおいりになる人はお持ち帰り下さいと誰かが云いよんなさる、それが此処の先生方、御信者さん方も沢山居るのです、それでああそんならいっちょ子供のために、貰うて行こうと云うてから、てんでもうこうするしこ持って行きよんなさいます、それが手から、ボロボロ落よる、家に帰るときはのうなって仕舞うたいというごと。
こうしてまあ慾と二人で、或る婦人の人は、前掛けを持つてあるけん、前掛けでこう掬うて持つて行きよんなさる、それで親先生あなたも貰うて来なさらんですか、そんならいっちょちっとばかり貰うて行こうかというて、手にこう五つ六つ貰うてこう頂いて持って帰ったっちゃこれは聡子がおもちゃにしますとね、口の中にでん入れると危険じゃから、やっぱ持って行くまいかと思うたけれども、まあ箱の中にでも入れときゃよかたいと云うて、ほんなちょぼっとばかり頂いて、帰って来たお夢であった。
そしたら又沢山の人が集まって、その大きな桶の中にはいっとるラムネの玉をひっくり返して、これしこ私がつばの、これは私がつばのというてから、もう阿修羅の様に、その喧嘩口論があっとるところであった、何という浅ましいことじゃろうかと、こっちからそれを眺めて思って、そこで目がさめて、又トロッとしたらその次には、そのラムネの玉がサントリーの一番安いのがありましょう、白いラベルをはった、確か五百円位のがありますよ、それに全部変ったという、お知らせであった。
そして今日私は、このところを頂いて、清きところも穢きところもところ仰るが、今日はここのところだから、清きものも、穢きものもと頂いて頂きたい、ね清きものも穢きものもということです、ですから結局は、それが例えば、ドブの中にあってもであっても、それが洗い清められてあるととか洗うてあるからということです、けどもその持つ人によって、我が心で不浄を犯すなと、ものものに例えば不浄をかけたら、もうそれは不浄のものに穢いものになるのです、だから持つ人に依ってです、清くもなれば穢くもなるということが云へます、ですね。
例えばお金でも、お金は人間生活で、必要なものでありますし、なからねば出来ないものです、ですから持つ人に依っては、それは大変なそれはお宝です、けれどもそれは持つ人が悪いとです、その金で傷付けたり殺したり、不穏なことを思い立ったり、する様なことになりますと、それはもう不浄の金といはなければなりません、問題はだから、此処では清きところも穢きところもと神様は、ないと仰っとられるから。
清きも穢きもない、ね神様の目から御覧になれば、なら私どもでも信心を段々高めて参りますと、皆が拝む対照であるということです、所謂物なら物金なら金をです、或る人が持てば、それは清らかなものです、所謂久保山アサ子さんじゃないですけれども、そんなに急に大工さんやら左官さんが変んなさる筈はないけれども、あんなよい人であったと、信心させて頂く様になったら、段々よい人に見えて来たというのである。
そこには周囲から又大事にされると云う働きも、勿論事が捗行くということも、勿論おかげの世界ですねそこはもう沢山な例えばお金を、子供のために、孫のために、子孫のためにというて残しておる、もうそれこそ慾と二人でこうやって、これは俺がっぞ、これは俺がつというて、それに勝利を得て、それに勝ってガッポリ持って帰って、来たと致しましょうか、それが子供を無精ものにしたり、不良にしたり、いよいよ没落の元を作ったりする、ものになるということは、そのものに、その金に、不浄がかかっておるからです。
それこそ例えばその金が拝む対照である、信心のいうなら裏付け、にその財産が出来たとするならばです、それは愈子孫繁昌家繁昌のもとになり、自他共にそれによって助かって行く、事になるでしょう、だからお金でも、穢いものだという人がありますけれども、持つ人に依れば奇麗なものなのである。
サントリーの一番安いウイスキーということ、どんな事だろうかと思うたら、そういう並みのものと特級と、超特級というふうに、あると致しましょうか、やはりね、それぞれの、心の状態に依って伴なって来るものが違って来る、只成程、これはウイスキーということはお酒ですから、有り難き勿体なき、恐れ多きということですから、有り難いということでしょうけれどもおかげを頂いても有り難い、これがまあ一番下の酒でしょうね、おかげを頂いて有り難い。
只で貰うて来た、ガバリもろうて来た、こうやって慾と二人で貰うて来た、だからああよかったよかったと嬉しがっている、それはけれども並みの酒である、そこで次には信心を頂いて有り難いこれが特級酒と致しましょう、ねおかげを頂いて有り難い、それだけで仕舞えて行く人が沢山あります、一生懸命でもとうとう信心を頂かんなりに、あの世に逝ってしまう人が、だから何にも持って行かれません、あの世に。
只信心ちゃ有り難かばのと云うとるだけである、次には信心を頂く、これが特級まあ超特級というならば、お徳を頂いて有り難い、私はそういうヒントをお夢の中に頂いたんだと思う、そこでお互いの心がです、信心によって段々成長して来る、私がよく話しに申します様に、子供のときに必要と思うておったものが、もう青年になれば必要がなくなります。
ラムネの玉と同じこと、子供のときにラムネの玉として、こう儲かったの損したのという、ほら儲かったと大事なものの様に、なわし込んでおる、それは少年時代である、所謂青年時代になったら、そげなものはいらんものである、そして青年時代は青年時代に必要なものを一生懸命集めようと致します、それから壮年になり、老年になるに従って若いときに必要と思っていたものが、必要でなくなる。
老年になれば、老年になっての、必要なものが変って来る様に、信心させて頂く様になって、おかげを頂きたいというそのおかげの内容が変って来なければね、いっまでも並みの酒を頂いておってはつまらんではないですかお互いどうだろうその様に信心の心ということが、成長して行っておるだろうか。
清いところも穢いところもないという心境、素晴らしい神様から御覧になれば、そうですから、私ども神様の心に近付くいて行けば、段々そうなればわかります、そして判って参ますところに私が少しばかりしかももう子供の手の届かんところに箱の中に入れとこうと、例えばこの金を、慾と二人で貯めたその金を子供に、孫にやるとするか伝えるとするか、そしてそのそれを口にして、喉にひっかかって死んでしまうということにならんとも限らん。
それがならお金である場合はです、その残してやった不浄のかかったお金で、子供が幸せになろうと思う思いは浅はかなもの、残してやるもの、内容が変って来る、いうならば、自分の信心の徳に依って、裏付けられるものがあるものを以て、しなければならない、それで自分の上にたまはって来るものというものがね、段々高度なものに変って行かなければ、それが楽しうなからなければいけませんよ。
先日から朝の食事のときに、高橋さんと話したのですが、確かにね信心の心が高度になって来ると、具はって来るものが段々自とよいものが具はって来るものになるよと話したことでした、先日の菊栄会のときに寝るんだときに皆やって来ましたから、お茶を出したら丁度、私のところに末永さんが大変良い洋酒というのを持つて来て呉れてました、だからその一番よかとを少し頂こうと、サントリーの一番よいブランデーだそうです、xoといいます、私はこの位、丸いね、今までは、あれは三千二百円位するでしょう、丸い、何と云いますかね、あれをずーっと頂きよったんです、けれどもこれは良過ぎるというけれども、良過ぎるというが、あんたどんが飲だとぢゃなか、私が飲むとぢゃけんよかろうちゅうてから、私がそれを封を切らせましたから。
やんがて半分位飲みましたまあこれは二千五百円がた飲んだ、五千円するそうですね、ところがです、翌る日は、今までかってなかったことですけれども、それと同じブランデーが来ましたよ、お供えに今お供えしてあるとがそうです、ブランデーがいろいろ来たんです、丸いのも今いうその昨夜頂いたばかりのそれも、それから特級のブランデーもブランデーだけがお三宝一台盛ってございますね。
それで翌日に高橋さんにこれは具はるとばいというて話したことでした、私がいつか、丁度豊美が結婚式のときに、当時の竹部教監が見えられた時に、金光様が糖尿病であんなさいますから、洋酒しか召し上らんと聞いとったものですから、それで取って置きのなおしてあったあのナポレオンの車になった奴がありましよう、あれを頂いとりましたから。それをことづけても良いでしょうかというたら、ああそれはお喜びになろうから、ことづかって行こうと仰しゃる、だからおことづけしました、そしたら二、三日したら、それと同じものがお供えに来ました、今私の部屋にあるのがそれです、だからね、これだけは合楽に備えておけと云はれる様なものですよねキッと、だから私の部屋に備えております。
なら二十日の日の菊栄会の晩に頂いたのもそうです、それを頂かせて貰うたら、もう封を切らせて頂いたら、又翌る日はそれが来ておるということは、もうそれを合楽に供えておけということなのです、じゃろうのと云うて話したことですけれども、私は間違いなしにそうだと確信致します。
それこそ白ラベルの安かっば一生飲む様じやつまらんでしょう皆さん、ですから本当にこちらの信心が高度化して来れば来る程、集まって来るものも、素晴らしいものそれは素晴らしいとか素晴らしくないとかいうそれと区別は実はないです、清きものも穢きものもないのですから、だからそういう中心の私なら私がです、皆が拝む対照になって来ることなのです。
それを最近熱心にお参りされる、久保山アサ子さんの例をもって申すしましたがです、第一仕事が捗行く、次には弟達が大事にする事が気が付いた、次には自分のところに働きに来ておられる皆さんのいはばどうした人だろうかと思えた人までも、あんなよい人に見えて来た、という様に、愈それが、立派になって行く、有り難くなって行くことに、持つものも、または集まって来るものも、全部有り難いものになって来る。
いうならば皆が有り難いもの皆が、よいものになって来る訳であります、だから持つもの自身の心次第で、例えばお宝と云はれるお金すらも、不浄の金になったり、又は清らかな金になったり、人を傷付けたり殺したりすることになったり、人の心を癒したり、又は助けたりする心になって来る。
持つ者の心によって、清きも穢きもなるものであってわが心に不浄を犯すなと、不浄を犯さんで済む私ということを、目指すことが信心でありますから、私どもに今までは、例えばもう本当にこれは大事だ、大事だ、必要なものだというものが必要でない位に、変って来なければ嘘、これだけは子孫に残してやらねばと思うて、いやいやこれは残してやられん、と返って、これはこれで怪我をする。
いや残してやるけれども、神様の御信用であるけれども、お徳の裏付けであるものしか残してやれないという様なです、心が頂けてくる、育つて来る心が、おかげを頂くということだ、今日は清き所とか穢きところとか清き物、穢き物、というふうに聞いて頂いた、そして結局は、清きものも、穢いものもない、皆んなが清い拝む対照のものになるのだということを聞いて頂きましたですね、どうぞ。